日本赤十字社 広島赤十字・原爆病院

8月6日その時

広島赤十字・原爆病院について

8月6日その時

8月6日その時

8月6日午前8時15分、鉄筋コンクリート建ての病院は、その外郭だけが残り、強烈な爆風によって窓ガラスは吹きとばされ、室内も無残に破壊され、惨憺(さんたん)たる状態に陥ったのです。病院では、約250人の軍患者をはじめ、医師・看護婦及び看護婦生徒など、負傷者が続出し、死者も出て大混乱となっていました。
そんな中、市内の医療機関はほとんどが機能を停止していたため、負傷者たちが殺到。働ける医師・看護婦は玄関前に総出で応急治療に当ったのです。

人的被害

(人)※院外被爆者も含む
区別総員数死亡者重軽傷者行方不明者
医師275250なし
看護婦343
看護婦生徒40822
薬剤師63
職員7918
55451
入院患者約2505109

物的被害

本館・中央病棟(戦後:1号館)、北病棟(戦後:2号館)は大破
隔離病棟・看護婦生徒宿舎・消毒所・汚物焼却所・礼拝堂・解剖室・守衛所・動物舎・車庫・同附属住宅・ポンプ室・洗濯室・作業場・倉庫各1棟及び渡り廊下は全焼
院外看護婦寄宿舎3棟(うち分寮2棟)、同じく院外の職員住宅4棟は全焼

7日、8日に、山口赤十字病院・岡山赤十字病院・鳥取赤十字病院から救護班が到着し、広島赤十字病院の医療活動を支援しました。
しかし、病院自体の人的・物的打撃が甚大であり、医療機能も停止状態であるところへ、一度に数千人の負傷者が殺到したため、残余のわずかな医療機械・医薬品による救護活動しかできません。全市の医療機関が壊滅状態にあったため、医薬品の補給もつかず、簡単な応急手当でさえも難しく、不眠不休での治療が続いたのでした。

広島の恩人マルセル・ジュノー博士

スイス人医師のジュノー博士は、第二次世界大戦中、ヨーロッパ各地の捕虜収容所の待遇改善などに尽力し、東京には赤十字国際委員会駐日主席代表として1945年8月9日に着任、長崎に原爆が投下されたその日でした。
8月15日に戦争が終わると博士は、部下を広島に派遣し、「町の80%壊滅、全病院は破壊または大損害」「惨状は筆舌に尽くし難し」「緊急行動を要す」という電報を受け取り、直ちに連合国総司令部(GHQ)に救助隊の編成を依頼しました。
答えはノーでしたが、その代わりに15トンの医薬品と医療資材の提供を約束させ、9月8日、医薬品とともに自ら広島に入り、被害調査と被爆者治療にあたりました。
運ばれたペニシリン(抗生物質…微生物や細菌の増殖を防ぐために用いられる物質)やサルファ剤(傷口などから化膿菌が侵入して炎症を起こした状態を止める薬)などの医薬品で1万人以上の命が救われたといわれています。

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